【成语小故事】破釜沉舟
2025.02.10
秦朝末年,各地人民纷纷举行起义,反抗秦朝的暴虐统治。农民起义军的领袖,最著名的是陈胜、吴广,接着有项羽和刘邦。下面,讲一个项羽破釜沉舟的故事——
有一年,秦国的三十万人马包围了赵国(那不是原来的那个赵国)的巨鹿(今河北省平乡县),赵王连夜向楚怀王(不是原来那个楚国的国王)求救。楚怀王派宋义为上将军,项羽为次将,带领二十万人马去救赵国。谁知宋义听说秦军势力强大,走到半路就停了下来,不再前进。军中没有粮食,士兵用蔬菜和杂豆煮了当饭吃,他也不管,只顾自己举行宴会,大吃大喝的。这一下可把项羽的肺气炸啦。他杀了宋义,自己当了“假上将军”,带着部队去救赵国。
项羽先派出一支部队,切断了秦军运粮的道路;他亲自率领主力过漳河,解救巨鹿。 楚军全部渡过漳河以后,项羽让士兵们饱饱地吃了一顿饭,每人再带三天干粮,然后传下命令:把渡河的船(古代称舟)凿穿沉入河里,把做饭用的锅(古代称釜)砸个粉碎,把附近的房屋放把火统统烧毁。这就叫破釜沉舟。项羽用这办法来表示他有进无退、一定要夺取胜利的决心。
楚军士兵见主帅的决心这么大,就谁也不打算再活着回去。在项羽亲自指挥下,他们以一当十,以十当百,拚死地向秦军冲杀过去,经过连续九次冲锋,把秦军打得大败。秦军的几个主将,有的被杀,有的当了俘虏,有的投了降。这一仗不但解了巨鹿之围,而且把秦军打得再也振作不起来,过两年,秦朝就灭亡了。 打这以后,项羽当上了真正的上将军,其他许多支军队都归他统帅和指挥,他的威名传遍了天下。
破釜沉舟
秦朝末年、秦朝の苛酷な統治に反発し、各地で民衆の反乱が起きました。最も有名な反乱の指導者には、陳勝や呉広、さらに項羽と劉邦がいます。その中でも項羽の「破釜沉舟」の物語は特に知られています。
ある年、秦国の30万の軍勢が赵国の巨鹿(現在の河北省平乡県)を包囲しました。赵王は急いで楚の懐王に救援を求めました。懐王は宋義を上将軍に、項羽を次将に任命し、20万の兵を率いて赵国を救うよう命じました。しかし、宋義は秦軍の強さを聞き、途中で恐れをなして進むのを止めてしまいました。軍は食糧が不足し、兵士たちは野菜や豆を煮て食べることになり、宋義はそれを気にすることなく、宴会で豪遊していました。この様子に項羽は怒り、宋義を殺し、自ら上将軍となり、赵国を救うために軍を率いました。
項羽はまず少数の部隊を派遣して秦軍の補給路を断ち、自ら主力部隊を率いて漳河を渡り、巨鹿を救いに向かいました。楚軍が漳河を渡り終えると、項羽は士気を高めるために、兵士たちに十分な食事を取らせ、三日分の乾粮を持たせました。その後、項羽はすべての渡河船を壊し、炊事用の釜を打ち砕き、周囲の家を焼き払うよう命じました。これが「破釜沉舟」の有名なエピソードです。項羽はこれによって、もはや退路を断ち、決して後退せず、必ず勝利を収めるという決意を示したのです。
楚軍の兵士たちは、指揮官の強い決意を見て、全員が死を覚悟し、引き返すことなく戦いました。項羽の指揮の下、楚軍は勇敢に戦い、九度にわたって突撃し、最終的に秦軍を大敗させました。秦軍の主力指導者は多くが殺され、捕虜となり、または降伏しました。この戦いで、項羽は巨鹿を救い、秦軍を打ち破り、再び立ち上がれないほどの大打撃を与えました。2年後、秦朝は滅亡しました。
この戦いの後、項羽は実際の上将軍となり、多くの軍隊を指揮することになり、その名声は天下に広まりました。
中国語教室「ニイハオチャイナ神戸」小呂