【成语小故事】千钧一发
2024.12.09
韩愈,字退之,唐朝邓州南阳人,是当时的大文豪,主张文以载道之说,以复古为革命,用散文代替骈文,影响当时及后代非常大,所以有文起八代之衰之功劳,他很反对佛教,唐宪宗派使者要去迎接佛骨入朝,他上表谏阻,得罪了皇帝,被贬到潮州去当刺史的官,他在潮州结识了一个老和尚,这位和尚聪明达理,和韩愈很谈得来,而韩愈在潮州又很少朋友,所以和这位和尚往来比较密切,因而外间的人都传说韩愈也相信佛教了。
他的朋友孟郊(几道),当时做着尚书,是最信奉佛教的。也为了得罪宪宗皇帝被贬谪到吉州去。到了吉州后,他也听到人们的传说,说韩愈已经信起佛来,他有点疑惑,因为他知道韩愈是反对信仰最力的人,为此,他特地写了一封信去问韩愈。
韩愈接到孟几道的信后,知道他与和尚往来,才引起别人发生了误会,马上回信向孟几道加以解释。而且,韩愈对当时在朝的一班大臣们,信奉佛教,不守儒道,一味拿迷信来蛊惑皇帝,大大加以评击。他对皇帝疏远贤人,使儒道坠落,颇为愤慨。信中有这样的话:“百孔千疮,随乱随失,共危如一发引千钧……”
这是比喻一件事情,到了极危险的地步,好像一根头发,系着一千斤重的东西。现在一般人凡是遇到最危险的事情,往往就拿这句话来形容。
这则成语见韩愈给孟尚书书,有:“共危如一发引千钧,绵绵延延,洼以微灭。”之句。
千钧一髪
韓愈(かんゆ)、字は退之(たいし)。唐の鄧州南陽の出身で、当時の大文豪であった。彼は「文以載道(ぶんいさいどう)」の説を主張し、復古を革命とし、散文を駢文(へんぶん)の代わりとすることを提唱した。その影響は当時から後世に至るまで非常に大きく、彼の功績は「文起八代之衰」と称えられている。彼は仏教に強く反対しており、唐の憲宗が使者を派遣して仏骨を迎え入れようとした際には、これを諌めて憲宗の怒りを買い、潮州に左遷され刺史として赴任することとなった。
潮州で韓愈は一人の老僧と出会った。この僧は聡明で理解力があり、韓愈とは話が合った。潮州には友人が少なかった韓愈は、この僧と親しく交わるようになった。そのため、外界では韓愈も仏教を信じ始めたという噂が広まった。
彼の友人である孟郊(孟幾道)は、当時尚書を務めており、仏教を最も信仰する人物であった。彼も憲宗皇帝の怒りを買い、吉州に左遷された。吉州に到着した孟郊は、韓愈が仏教を信じるようになったという噂を耳にし、疑念を抱いた。なぜなら、韓愈が信仰に対して最も反対していたことを知っていたからである。このため、孟郊は韓愈に手紙を送り、真相を尋ねた。
韓愈は孟郊の手紙を受け取り、自分が僧と親しく交わったことで誤解が生じたと理解し、すぐに孟郊に手紙で説明した。そして、彼は当時の大臣たちが仏教を信奉し、儒教の道を守らず、迷信で皇帝を惑わせていることを厳しく批判した。また、皇帝が賢人を遠ざけ、儒教の道が衰退していることに対しても大いに憤慨していた。手紙には次のような言葉があった。「百孔千疮、随乱随失、共危如一髪引千鈞……」(物事が非常に危険な状態にあることを、一筋の髪の毛が千斤の重さを支えているようなものに例えている。)
この成語は、韓愈が孟尚書に宛てた手紙にあり、「共危如一髪引千鈞、綿綿延延、洼以微滅」との文句から来ている。この比喩は、物事が極めて危険な状態にあることを表し、現在でも非常に危険な状況を表す際に使われる。
中国語教室「ニイハオチャイナ神戸」小呂