【成语小故事】半部论语
2024.11.11
【成语】: 半部论语
【拼音】: bàn bù lún yǔ
【解释】: 旧时对儒学经典之一《论语》的夸赞之辞,掌握半部《论语》,人的能力就会提高,就能治理国家。
【成语故事】:
这个成语来源于宋.罗大经《鹤林玉露》,人言普山东人,所读止《论谱》…..太宗尝以此问普,普略不隐,对曰:“臣平生所知,诚不出此。昔以其半辅太祖定天下,今欲以其半辅陛下致太平。”
北宋著名的政治家赵普,原先是后周当节度使的赵匡胤手下的推官。公元960年,赵匡胤率军北上,部队到达陈桥时,赵普为赵匡胤出谋划策,发动兵变。赵匡胤黄袍加身,做了皇帝,改国号为宋,史称宋太祖。接着,赵普又辅佐宋太祖东征西讨,统一了全国。后来,宋太祖任命他为宰相。
宋太祖死后,他的弟弟赵匡义继位,史称宋太宗。赵普仍然担任宰相。有人对宋太宗说赵普是山东人,不学无术,所读之书仅仅是儒家的一部经典《论语》而已,当宰相不恰当。宋太宗不以为然地说:“赵普读书不多,这我一向知道。但说他只读一部《论语》,我也是不相信的。”
有一次宋太宗和赵普闲聊,宋太宗随便问道:“有人说你只读一部《论语》,这是真的吗?”
赵普老老实实地回答说:“臣所知道的,确实不超出《论语》这部分。过去臣以半部《论语》辅助太祖平定天下,现在臣用半部《论语》辅助陛下,便天下太平。”后来赵普因为年老体衰病逝,家人打开他的书箧,里面果真只有一部《论语》。
(日本語訳)
この成語は宋の羅大経の『鶴林玉露』に由来しています。「世間では、山東出身の趙普が学問をおろそかにし、ただ『論語』しか読んでいないと言われている……太宗が一度、このことについて趙普に尋ねると、趙普は少しも隠さずに答えた。『私が知っていることは、確かにこの範囲を超えません。以前はその半分で太祖(宋太祖)を助けて天下を平定し、今は残りの半分で陛下を補佐して太平の世を築こうとしているのです。』」
北宋の著名な政治家である趙普は、もともと後周で節度使を務めていた趙匡胤(後の宋太祖)の部下として推官を務めていました。960年、趙匡胤が軍を率いて北へ向かい、陳橋に到着した際、趙普は趙匡胤に計略を授けて兵変を起こすよう促しました。こうして趙匡胤は黄袍をまとって皇帝となり、国号を宋に改めました。史上では宋太祖と称されます。その後、趙普はさらに宋太祖を補佐して東西に軍を進め、ついに全国を統一しました。その功績により、宋太祖は趙普を宰相に任命しました。
宋太祖の崩御後、弟の趙匡義が即位し、史上「宋太宗」と称されました。趙普は引き続き宰相を務めましたが、ある者が宋太宗に「趙普は山東の出身で学識が乏しく、ただ『論語』一冊しか読んでいないため、宰相にはふさわしくありません」と讒言しました。宋太宗はこの言葉を聞いても気にせず、「趙普が本をあまり読まないことは知っているが、ただ『論語』一冊しか読まないというのは信じがたい」と言いました。
ある時、宋太宗は趙普と話をしている中で、「あなたが『論語』しか読んでいないというのは本当か?」と問いかけました。趙普は正直に「臣が知っていることは、確かに『論語』の範囲を超えておりません。以前はその半分で太祖の天下統一を助け、今は残りの半分で陛下をお助けして天下太平を目指しているのです」と答えました。
その後、趙普は老齢のため病没しましたが、家族が彼の書物箱を開けると、そこには本当に一冊の『論語』しか入っていなかったのです。
中国語教室「ニイハオチャイナ神戸」小呂